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【闘病日記 第一部】               【第二部】


ノ−マン・カズンズ

「続・笑いの治癒力・生への意欲」

に習った

「私の闘病記」

私家版、未定稿
※内容を一部省略、その他は原文のまま

地井 昭夫

2005.12.20.

 

 

ノ−マン・カズンズ(1915-1990)は、アメリカの著名なジャ−ナリストの一人で、日本では、広島の原爆乙女をアメリカに連れて行った人として記憶されている。彼は、膠原病と心筋梗塞という2つの大病を、自己治癒力で克服しその経緯を出版したジャ−ナリストとして世界的にも知られ、そのために医学の素人にもかかわらず1978年からカリフォルニア大学ルサンゼルス校の医学部大学院教授となり話題を呼んだ。

 本記は、私の病気の経過が、このカズンズ氏の2作目の「続・笑いと治癒力・生への意欲」(岩波現代文庫)に酷似していることやカズンズの生き様に感動して、それをトレ−スした闘病記として作文したものであり、文の運びやドストエフスキ−、ソクラテス、トルストイ、プル−ストなどの引用は、すべてこの労作からお借りしたものである。

また、この本をお見舞いとしてプレゼントしていただいた広島市の秋葉市長に心から感謝したい。

 なお、この私家版は、私の病気でお世話やご心配いただいた方々へのささやかな感謝と、治療の経験から、すべて医師の指示に従うのではなく自分の意見を持つこと、また健康診断を当てにしてはならないこと、など何かのお役にでも立てるかと考えた中間報告で、病気に伴う自己批判、医療(制度)批判、社会批判などで構成されています。(中略)

 

1 統計の意味と私の意思

 なまはんかに病気の統計などを知っていると、入院患者になったとき、かえって暗い気持ちにさせられる。統計によると、食道がんに見舞われる患者は、男性の50-70歳台に多く、平均年齢は65歳で、強いアルコ−ル飲料や熱い飲食物が好きな人、喫煙者に発生する頻度が高いという。食道がん患者が正規分布するとすれば、ちょうど私の年齢である65歳前あたりがそのピ−クということだろうか。しかし、その数年間の生存率などについては、これ以上詮索しない方が精神にも良いであろう。2005117日、私は、食道がんの治療のために○○病院に入院することになったが、いつもこの数字を心から払いのけようとしても、なかなかそうはいかなかった。病院での診断は「進行の早い食道の扁平上皮がんで、このままでは、余命3ケ月から半年」という、おそらく自己治癒力など出る幕もないと思われる厳しいものだった。

 病室で夕暮れになると、私はこのまま運を天にまかせて寝こんでしまったものかと迷った。ドストエフスキ−の小説の中の人物のように、これがこの世の最後の何日か前の夜なのだろうかと思いあぐねることもあった。灯を暗くした病室や自宅の寝室で一生の旅路の果てを迎えるのでは、あまりにも呆気なく、殺風景すぎるという思いが心に浮かんだ。とくに病室は、部屋にある治療優先の設備類や単調なインテリアも、こうした思いに拍車をかけることはあっても、慰めてくれるものではなかった。

(この最新の病院建築の治療支援環境としての問題点や治療補助器具などに関する実に多くの問題点や課題については、別稿を是非見ていただきたい。抱腹絶倒ものです)

 私はあまり儀式ばったことにこだわるほうではないが、人生の節目、それも人生最後となるかも知れない節目には、何か工夫がいるのではないか、という感じを持たずにはいられなかった。しかし、私は、これまで2人の親の最後を看取ったのだが、その2人に対して、特別にそうした機会を作ることに配慮しなかったことに気がついたし、3人目の山形市在住の92歳(!)の父のお通夜や葬儀には、ちょうど予約の必要な検査入院が重なり参加することができず長男に参加を依頼したのだが、なんと手前勝手なことか。 

 しかしソクラテスは、少なくとも、毒薬を飲む前に哲学的な対話を交わして、最後の債務の支払いを果たすことができた。彼は、「私はアエスクラピウスの神に鶏を一羽捧げると約束している」と言い、クリト−にその実行を頼んだ。その最後の言葉は、ソクラテスの一生の中でもっとも意味深い名言ではなかったかもしれないが、しかしやはり、一種の山場になっているし、それで債務なしの旅立ちができたのだ。

 私自身に死を前にした債務があるとすれば、それは何なのであろうか。私は自問自答している。「今この時になって、何を考え、何をしたらいいのだろう」と。ジョン・スタインベックは、「サタデ−・レビュ−」に寄せたエッセイの中に、我々がそれぞれに、「自分は十分に生きたか」「自分は十分に愛したか」と問わなくてはならぬ時が来るものだ、と書いた。私は、この第1問についても第2問についても自信が無い。まして死を前に、これまでの研究を取りまとめは、やっても良いことかもしれないが、とても時間がかかるし、最後の債務としては、あまりにも陳腐すぎる。また「今から愛することはできるのか」。私にとって、最後の責務とは何なのだろうか。

 そういうプル−スト的な沈思黙考をめぐらしながらも、自分の置かれている状況の厳しさは、私の意識から離れない。しかし私は、自分を振り返る。私は、決して慌てふためいたりしない人間、自分の身体や精神を注意深く観察する人間、そして簡単にはあきらめない人間であったはずだという思いがあった。事実、私は病院の担当医にこう告げていた。「私は、検査前にがんを確信していました。そして、いずれ死を迎えるであろうことも覚悟しています。しかし、あらゆる可能性を探ってがんばります」と告げていた。

 

2章 がんは自業自得のライフスタイルから

 テレビのスイッチを入れてみると、建築士などによる強度計算の偽造問題や続発する児童誘拐が世間を賑わしている。ここにも日本社会の崩壊が見事に示されている。日本は社会を“作り直さなければならない”のだ。いくら警官や税金を増やしも、こんな“自己治癒力の無い”社会を維持することは不可能である。思えば小松左京は、約30年前に「日本列島沈没」を著したのだが卓見という他はない。何が「郵政民営化」だ。思えば私は、日本列島を沈没から救うために都市にとって不可欠な地域空間としての農山漁村の研究に取り組み、まだその道半ばにあるのだが、すでに農山漁村のみならず都市も崩壊の兆しを見せつつある。それはあたかも「ハメルンの笛吹き男」の市民のように、約束を守らなかった国民が笛の音(改革改革という笛の音)に引かれて、集団自殺への途を行く姿そのものである。

一方楽しいニュ−スでは、そんな閉塞したハメルンの町の外側から来た琴欧州の大関昇進があったが、こんな放送に結構夢中になれたというささやかな喜びで、私は、いささかふさぎこんだ気分を転換でき、ホッとした安堵の息をついて、テレビを消し、睡眠導入剤を飲んで眠りに落ちる。そして翌朝の6時頃目をさまして、室内を見渡し、とにかく一晩無事に過ごしたことを確認し、朝食を済ませ、新聞を読み、それから今度の食道がんの原因となった事柄に思いを巡らしていた。

 思えば8年前の、弟の肺がんの発見と治療と死以来、私は、自分の身体を酷使し続けてきた。手帳を辿ると、その1年だけでも、次のような暮らしぶりが続いていた。

平成1012 −約5週間続いた弟の看病と通夜・葬儀で多忙を極め、広島と茨城の往復が続き疲労困憊。

平成1013 −この3ケ月のみで東京や沖縄などへ18回も出張。

平成10211月−茨城の両親の世話や広島への引き取りのために茨城県へ9回通う。

平成108   −北海道奥尻島の地震災害復興調査に出かけて函館で10日に「気胸」を発症、即入院となり、次男に伴われて4日後に広島に転院し19日に退院。
入院中にカテ−テルをしたまま地元テレビに出演!

 2328日と沖縄の慶良間列島の取材で出張。

 

 弟の看病と葬儀はともかく、それ以後の暮らしぶりは、もう働き過ぎで睡眠と栄養不足の「立派な生活習慣病」である。日本の医師の中には、数は少ないが「がんは生活習慣病である」と主張する人たちがいるのだが、私は、自分のこうしたライフスタイルを振り返っても、このことを確信できる。そして酒やタバコは、がんの間接的な原因とはなったであろうが、直接的なものではないと確信している。私よりも数倍も酒やタバコをやりながら、がんにならない友人をたくさん知っている。そうではなくて、私のがんは、多忙な中で睡眠導入剤の世話になりながらも結果的に睡眠不足が続き、さらに不十分なカロリ−や栄養素しか与えられずに奴隷のごとく酷使された我が身体が発した悲鳴なのである。私の体に、多大なる陳謝をする他はない。

 またタバコといえばこの○○病院は、大議論の末に「喫煙は人権である」という観点から病棟に喫煙所を設けたすばらしい病院である。そしてそこで、私は時々、ガラス越しに一人の医師が白衣に名札をつけたまま、泰然とタバコをたしなむ姿を見かけるのだが、これだけ喫煙が犯罪扱いを受ける中で、この医師に深い尊敬の念を禁じ得ない。さらに全国の病院でも、こうした喫煙を認めるところが増えているし、特別養護老人ホ−ムなどでも、喫煙・飲酒が自由なところが増えている。

 思えばもっと早く病気に気がつく機会もあったのだが、そのチャンスを逃していた。例えば、この3月には職場の健康診断もあり、バリウム検査もあったのだが、食道の腫瘍は軽く見逃されたようだ。健康診断無用論があるが、もっともである。私の弟も健康診断を受けていたのだが、数ヶ月後には肺がんが脳にも転移しており全くの手遅れだった。また7月頃だったろうか、右の肋骨の中央部分がほんの少し痛んだのだが、多忙にかまけて見過ごしていた。8月中は大学院修士課程の申請書類づくりに追われ、9月は論文執筆に追われていた。そしていよいよ9月末に、ビ−ルを飲んでも「つかえ感」が出るようになり、ついに近くの掛かりつけ病院の検診を受けたのだが、すでに覚悟はできていた。(中略)

 ア−ノルド・ハッチネッカ−は著書「生きる意欲」の中で、嫌々ながら義理に縛られている人々は重い急病にかかりやすいという説を述べている。たしかに私の身体は、義理建ての委員就任や熱心な研究者であり続けること、面倒見の良い教師や物分りの良い父親でいること、そして授業や会議、飛行機や新幹線に遅れまいとして必死でハンドルを握る男などの苦労を、今後は免れる立派な口実を私に授けてくれたのだ。振り返れば私は、これまで在籍した各大学で計5回も大学院の修士課程と博士課程の設置に伴う○合教員になるための審査を受けているのだ。これは、日本でもトップクラスの回数だ。もうこれ以上学会と文科省向けの研究は止め、教育のための研究のみとしよう。

 いずれにせよ、私は、トルストイの名作「イヴァン・イリイ−チの死」の主人公のしたように、神様がなぜか、自分だけを選んで、罰をおあてになったと不平をこぼす気は全くなかった。実生活の中でも、文学の中でも、重病にかかった患者というものは、「どうして私が?」と不平たらたらなのが普通だが、私の場合、その問いに対する答えは、分かりきっているからだ。私は自業自得、自分で病気を招いたのだ。相対的だが働き過ぎ、研究のし過ぎ、旅行のし過ぎ、過度の睡眠と栄養不足だったのだ。だから今ならまだ、私の酷使された身体に陳謝しつつ放射線や抗がん剤や免疫向上サプリメントも含めて自己治癒力を誘発する治療をつづければ、論理的には癌は快方に向かうはずである。

 

3章 副作用と食事との戦い

 そしていよいよ○○病院の外科を訪問し検査入院となったのだが、結果は「左肩のリンパ節への転移もあり手術は当面不可能(他の臓器への転移はない)」と告げられ、放射線科でお世話になることになった。その時私は、外科の担当医に「私は、検査前にがんを確信していました。そして、いずれ死を迎えるであろうことも覚悟しています。しかし、いろいろな可能性を探ってがんばります」と告げたのである。

 そしていよいよ117日から入院となったのだが、6日の夜とりあえず家で入院前のビ−ルを少し飲んで寝込んだ夜であったろうか、突然私の脳裏に、なんということか軍歌がよぎったのである。曲名は忘れたが、例の「行って来るぞと勇ましく、誓って家を出たからにゃ−、手柄立てずに帰えらりょか」というやつである。私は、一応平和主義者であり人前でこんな軍歌など歌ったことはない。しかし、なんたることか! 私の年代のなせる業か。しかし、冷静に考えれば、確かに手柄(つまり治療効果)を立てて家と大学に戻らねばならないのだ。だからこの軍歌の登場は正しいのかも知れない、などと無理やり納得して眠りについた。

 よく知られているように放射線と抗がん剤による治療には副作用がつきものである。私の入院記録によれば、副作用はすでに2日目からはじまった。第1日目の午後4時から放射線の照射がはじまり、午後8時から24時間1週間の抗がん剤(5FU)が始まった。そして第1夜は無事に越したのだが、2日目朝からの抗がん剤(ネタプラチンという比較的弱い抗がん剤ということなのだが)による副作用は、すでにその日の昼食にも影響が出て、つまり急速な食欲低下で昼食は7分目しか食べられなり、その後は吐き気が続き、おかゆしか食べられなくなった。そして4日目の夜にはついに吐き、いよいよ副作用との戦いがはじまった。

この副作用防止について、是非触れておきたいことがある。治療入院の前に検査のために4日間入院したのだが、そこで私は、癌治療に関する様々な勉強の機会が与えられた。とくにアメリカの癌治療の最前線では、手術・放射線・化学療法に加えて、その副作用を抑えるためのマルチビタミン・ミネラルや抵酸化サプリメントと免疫力向上のためのサプリメント(AHCCやフコイダンやアガリクスなど)の組み合わせが政府によっても推進されている、という記事が注目された。もっともフコイダン(液体のモズクのエキス)による代替療法に関しては、我が妻と娘の強い勧めもあり、入院1週間前から飲用をはじめていた。そのせいか、すでに入院前日から喉の違和感は少し改善されていた。そこで放射線の担当医に、この代替療法のことを告げると「いいでしょう」、別の担当医からは「効くものなら、なんでもいいです」というすごい答えが返ってきた。

 さあ、ここからが本番である。治療が始まって間もなく、放射線科待合室の本棚に「副作用のない抗がん剤治療」という有名な平岩正樹先生の本を見つけた。ここでは平岩先生の長い治療との格闘の中から編み出された副作用除去の見事な処方が公開されているではないか。そしてとくに吐き気の防止にはアセナリンという平凡な胃腸薬やその他の効果的な薬があると記されていた。長引く吐き気にうんざりしていた私は、ついに担当医と薬剤師に付箋を付けたこの本を差し出して、「この薬を出してください」と、彼らのプライドをいたく傷つけたであろう行為に出た。(中略)

 それから副作用に効く薬を求める孤独な戦いが始まった。地元の知人の医師に相談してある胃腸薬をいただいたり、故郷の同級生の医師に電話で相談したり、同じ大学の医師に相談したり、厚労省認可の吐き気止めの漢方薬(六君子湯)を購入したりと、孤独な戦いは続いた。しかし最近ようやく収まったが、いまだに効果的な薬は入手されていない。あぁ、なんたることか。まもなく第2回目の化学療法が始まるというのに。

 もうひとつは、食事との戦いである。ふだんから食べ物の好き嫌いが多い私にとって、そして吐き気と食欲不振に苦しむ私にとって病院食との戦いも苦痛であった。しかし、喫茶店のおいしいモ−ニングセット(1日中食べられる)と近くの中華料理店には救われたものである。(中略)ちなみに平岩先生は、がんの治療効果と同じように患者の食事の摂取を重視しているのである。

(中略)

それにしても驚いたのは食堂に来る人々の食欲であった。例えば80歳を超えていると思われる私より小柄なおばあさんは、毎日バイキングで中ライスとおかずで昼食をとるのだが、彼女のおかずの量は、私のそれの3倍をゆうに超えていた。そうなのだ、このぐらい食べるから御年80を超えても元気なのだ。私も見習わなければならない、と驚きよりも尊敬の目で見させていただいた。またやはり小柄なホ−ムレスとおぼしきおじいさんもよく見かけるのだが、一食500円のバイキングを良く食べていた。私が病院の売店で購入した「カロリ−ガイドブック」によれば、このおばあさんの昼食の摂取カロリ−は、ゆうに1100Kcalを超えていると思われる。私の入院中の一日摂取量の約7割である。私はここでイタリアの格言を思い出していた。それは、「男の魅力は、その食事の量に比例する」というものである。あぁ神様、私はイタリアではダメ男なのだ。いや日本でもか。

 

第4章      医師との戦いと中間経過

 さて、こうした副作用との戦いはまた医師との戦いでもあった。医師は当然のことながら、自分の専門分野の治療を平均値的に法則化された手法で適用しようとするものだ。病院のそこらじゅうに「当病院では、患者様に、全人的治療を行います」と書いたポスタ−が張られているのだが、私に言わしむれば、「当病院では、患者様に、平均的治療を行います」と書いてあるとしか思えない。(中略)しかし、便秘対策の下剤は良く出してくれて、これだけは良く効いた!

つまり患者の平均的なQOL(生活の質)のための治療ではなく、PQOL(Personal Quolity Of Life−個人の生活の質)のための治療が必要なのではないだろうか。だから、ちょうどその頃偶然に出会った知人の医師のご夫人が病室を訪問してくれたのだが、彼女は「だから主人は、いつも内科・外科・放射線科も含めたチ−ム医療が必要なのだ、と言ってます」と語っていた。

そうこうしている間に吐き気も収まりはじめたので、私は、次の5FUとネタプラチン投与の時期について、担当医に「体力の問題もあり副作用も心配なので、次の化学療法の開始前に、いったん退院させてほしい。そして休養したい」と、怒られるのと断られるのを承知で申し出た。医師は「続けないと効果が持続しないばかりか、悪化する心配もある」と脅迫的に告げた(たぶん正しいと思うが)のだが、私は、さらに「素人考えですから怒らないで下さい。そうであれば、ネタプラチンの投与時期を一週間ずらしてほしい」と申し出た。医師はしばらく考えて「その間も放射線治療を続けるなら良いでしょう」ということになったのである。なんと私は、医師の治療スケジュ−ルを変えさせることに成功したのである。当病院のあちこちには次のような「患者の権利」も掲示されている。「3.納得のいく、十分な説明を受けて知る権利」「自分の意思で選択し、決定する権利」などである。

この1週間の延期は、2回目の5FUとネタプラチンの副作用に対する体力を付ける上で、とても重要であったと思う。(中略)私は最大6kg痩せたのだが、そのために余病を併発するのではないかと真剣に悩んだものである。こればかりではなく、他のことについても、私は「しつこいようですが・・・」「くりかえしますが・・・」と医師を怒らせないように、さまざまな質問をあびせ、お願いもして随分医師にも煙たがられたことと思うのだが、結果的には、相互理解は深いものになったと思う。

 しかしここで私もカズンズに習って、医師や看護師やレントゲン技師たちの勤務を擁護しておきたいと思う。彼らの労働は実に過酷なものであり、私ならとうてい勤まらない。担当医も当直時には8時に入院棟に来て、ミ−ティングの後8:30には私の部屋を訪問してくれる。おまけに担当患者が急変すれば24時間の携帯呼び出しである。彼らに対して、国民医療費の抑制のためと称して診療報酬を引き下げようという動きが急であるが、私はまことに姑息な手段だと思う。そうではなくて、私も含めて膨大な数に上る「がんを含む生活習慣病患者の抑止策」に取り組むことが本質的な解決となるからである。それも介護保険の被保険者となる65歳からはじめても遅い。すでに50歳台から介護保険と医療保険の双方が適用できる予防システムを構築して、「介護や生活習慣病予防」に取り組めば、中長期的には国民医療費は大幅に減少するはずである。霞ヶ関とくに厚労省の役人たちも、日ごろの縦割り行政の死守に追われて、こんな簡単なことすら理解できないのだ。というよりも自らの職場と天下り先確保のために、国民医療費を官僚として容認できる高い水準に保ち続けたいためであろうか。 

 こうしたことを広島市の社会福祉審議会でも主張しつづけているのだが、残念ながらわずかな委員を除いて理解できる行政官はいない。ちなみに間もなく65歳になる私のところにも、「(老人保健法による)健康手帳」や「介護保険被保険者証」が、“おまえはもう老人だから、国の言うことを聞け”と言わんばかりに続々と送付されてくるのだが、すでに私が実証しているように、65歳になってから慌てふためいても遅い。

 さていよいよ122日の再評価の日となった。前日の夜9時から絶食で翌朝の放射線治療を受け、その後空腹でふらふらしながら造影CT検査が行われたのだが、その結果は、食道の腫瘍については、素人の私も驚くぐらい回復(つまりほとんど消滅しつつある)していた。そして医師は「食道部については完治の可能性もあるかも知れません」と伝えてくれたのである。これで終われば、めでたしめでたしなのだが、問題は左肩のリンパ節へ転移した腫瘍であり、残念ながらあまり縮小していなかった。

 そこで私はまた次のように口出しした。「では食道部への放射線量と肩への放射線量を変える必要はないですか」と。これに対して医師は「変えます。そして経過報告のために火曜日には外科の担当医と会って下さい」と言った。これは、つまりリンパ節への外科的施術の可能性を探るという意味なのであろうが、私は、外科的治療は拒否するつもりでいる。それよりも、当病院で実施している免疫治療に期待したいからである。

 この免疫治療についてもエピソ−ドがある。(中略)私の言い出すタイミングがいかにも悪かったのかも知れないと反省もしているのだが。

 ところが再評価の結果が医師にとっても意外に良かったからであろうか、私と医師と家内でCT写真を囲んで詳しい報告や質問が交わされたのだが、その終わりころに医師は「ひととおりの治療が済んだところで、免疫治療を試みる価値があるかも知れない」と言ってくれたのには驚いた。

 また、この再評価の結果が、なんということかスタッフに知らされていないことを知った私は、再評価の簡単な報告と「ところで私は、わがままな患者であると自覚しておりますが、いましばらくのご支援をお願いします」という内容を添えたメモをスタッフステ−ションに渡したのだが、それからスタッフの多くが、些細な用事でも、時には用事が無くとも私の部屋を訪れて、時には退屈な私も長話を楽しむようになった。なんと素晴らしいことか。

そして再評価が出た日あたりから、左肩の痛みも日を追って緩和してきた。これは放射と抗がん剤やビタミン剤やフコイダンなどの代替治療も効いたかも知れない。さあこれから、さらに気力と体力を充実させて次の山場を越さなければなるまい。まさにノ−マン・カズンズの言うように、病気との闘いは一種の「知的冒険」であるのだが、いよいよその正念場に差し掛かってきたと言えるだろう。そして私が、この一連の治療の経過を徹底的にそして客観的に分析・整理して出版すれば、ノ−マン・カズンズのように、どこかの大学の医学部の「患者論」の非常勤講師ぐらいにはなれるかもしれないのである。

いやいや、もう働き過ぎはやめたのだ。


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【闘病日記 第二部】


私の広大病院(病院環境、医療機器)体験記

2006.3.3.

広島国際大学教授、広島大学名誉教授

地井昭夫 

               

            

 私は、かつて平成14−15年度に広島大学施設整備委員会の委員長を務めました。その時には広島大学の主要な部局の施設とその整備課題などの点検のために、他の委員の先生方と一緒に大いに歩きまわりました。そこで強い印象を受けた、つまり改善課題の多い部局が附置研究所「原医研」大学病院及び附属学校でした。中でも大学病院の外来棟のいささか老朽化したと思われる「放射線科」と超老朽化した「原医研の建物」でした。

 ところが昨年の10−12月に、私は、なんと「食道がん」の治療のために放射線科に入院することとなり、外来棟のリニヤック室などに通うこととなったのです。その時の体験は、元委員長としてのみならず建築家として、住居学者として、また患者としても、まことに貴重なものであるとともに、大いなる改善課題があることも感じました。そのポイントは、「患者の目線から、病院環境や設備・医療機器考える」ということです。

 また私は大学の設計課題のために毎年学生を特別養護老人ホ−ムなどに連れて行きますので、教育材料としても、この体験を、再入院中ですので手短にまとめてみたいと考えた次第です。

病院・大学関係者だけではなく、福祉介護関係者、同コンサルタント、建築家、建築教師や学生、メ−カ−の皆さんにもご笑覧いただき、ご意見をいただければ幸いです。

 

目 次

1.              建築と玄関ということ

2.              「住院楼」という表現

3.              個室とP−QOL

4.              初のストレッチャ−体験

5.              点滴スタンドのこと

6.              病院の温湿度管理

7.              ナイチンゲ−ルの功績

8.              その他

@エレベ−タ−をなんとかして

A恐怖の長廊下

附.  放射線科のこと  

原医研のこと

                    

1.建築と玄関ということ

  建築には、一般に「出入り口」があります。住宅の場合は「玄関」ということです。私が広大病院へ入院するために病棟をはじめて訪れた時に、その入り口(玄関)のデザインにとても驚きました。なぜなら、この玄関は、病院なのか、オフィスなのか、マンションなのか、はたまた新幹線か空港のロビ−なのか全く分からなかったからです。やはり病院の玄関は、“ここに入ったら病気が治るだろう”と思わせるものであってほしいと思うからです。もっともこのことは、デザインとしては簡単なことではありませんが。

 ここで玄関の意味を考えてみます。もともと日本の建築・住宅には「玄関」というものは無かったのですが、鎌倉時代に禅宗のお寺に発生しました。その意味は、“妙なる境地に至る門”というような意味でした。つまり玄関とはいはば“桃源郷−ユ−トピアへ至る関門”だったのです。

 ですから住宅の玄関も、その内部に“楽しい家族だんらんの場がある”ことを思わせるものでなければなりません。もしかしたら、最近の家庭の多くの不和は、その玄関のデザイン(設計)のマズサにあるのかも知れません。これはとても大切なことなのですが、これ以上は触れずに、大学病院の玄関のデザイン論に戻ります。

     大きな庇がほしい−雨の日ここにタクシ−で乗り付けても傘を差さなければなりません。患者にとっては負担です。

     吹き抜けがほしい−そして玄関を入っても一人の派遣社員(?)の案内所と殺風景な椅子コ−ナ−しかありません。これでは2階から上にある多様な医療環境を感じることは全くできません。できれば、お金がかかりますが吹き抜けとエスカレ−タ−があれば、多くの患者たちは“治療への期待に胸を膨らませる”ことでしょう。なぜデパ−トにエスカレ−タ−があるのかお考え下さい。特にデパ−トの2−3階は、女性にとって(そして経営者にとっても)ユ−トピアで、そこへ行くにはエスカレ−タ−でなければダメなのです。

     総合案内所がほしい−そして2階には、多様な老若男女の患者や家族の質問や疑問に答えるべく、多国語が話せる老若男児の案内者(ボランティアでも良い)が配置されていれば、患者たちも安心するでしょう。

 

2.「住院楼」という表現

 また入院してしばらくしてから、病院の廊下の看板で面白い表現に出会いました。それは、入院病棟のことを中国語で「住院楼」と表現することでした。はじめて知りました。さすがに漢字の先輩国で、誠に正しい表現だと思います。私のゼミの中国人学生にも確認しましたが、「住−住まい」「院−病院」「楼−建物」という意味で、入院とは、まさに病院という住宅に住むこと−つまり文字の意味するところは、家のようにゆっくり過ごせる場所なのです。これに比べて英語では「inpatient ward,つまり痛みに耐える人の居る区画や共同病棟という意味でしかないのです。

 ここで思い出すことがあります。それは20年も前ですが、スリランカ・コロンボでの国際シンポジュウムを終えた帰途に、高熱のためにタイのバンコクの病院にかかったときのことです。その病院の環境・設備は素晴らしく、玄関ロビ−の案内所の女性は、私に“どうしました?”と日本語で訊ねました。そしてロビ−には、サ−ビスの暖かい飲み物と冷たい飲み物を持った女性が、“いかがですか”というタイ語で患者たちに勧めていました。

 そればかりではありません。いよいよ診察となったのですが、担当の女医も“どうしましたか”と日本語で話しかけてくれました。挨拶の後は通訳に頼みましたが、要するに“まずサ−ビス精神あり”なのです。そして入った部屋は広い広い4人部屋でしたが、その諸サ−ビスと蚊帳(!)のあるベットは文字通り住宅のようでした。

 

3.個室とP−QOL

 次に個室について考えて見ます。当然に広いのですが、部屋にフォ−カス(焦点)がないように思います。フォ−カスとは、当然患者の寝るベッドとその周りなのですが、そうはなっていません。1−2の例を挙げます。

@     ベットから手が届く範囲では、ベットの上下以外は何も出来ません。すべて起き上がる必要があります。おまけにベット灯のスイツチ操作は、看護師に聞いても建築士の長男に聞いても操作方法が良く分かりません。

A     要するに寝たままでも操作出来るような患者用のコントロ−ルパネルが必要なので、頭上の酸素吸引口などのあるプロ用のパネルと一諸ではダメなのです。

B     また多くの家具類がありますが、出来ればキャスタ−がついて移動できればありがたいですし、緊急の治療にも役立つはずです。

C     さらに壁が殺風景なのは仕方ないとしても、レプリカの絵やポスタ−でも借りることができればありがたいと思います。私は、趣味のミニカ−をテ−ブルに並べて我慢しました。

要するに、患者毎に異なるP(パ−ソナル)なQOL(個人の生活の質)が実現される必要があるのです。もし私の学生が、この個室のインテリアデザインを提出したら、私は70点以下とするでしょう。

                                         

4.初のストレッチャ−体験

 この体験が、これを書くきっかけとなったと思います。5FUとネタプラチン治療がスタ−トして翌日から、吐き気で食欲が急低下し、カロリ−不足だったのでしょう、ある日リニヤック室の椅子に倒れ込むように横たわりました。するとたちまち「一個中隊」かと思うほどの看護師と医師が集まってくれました。そして私は拒否したのですが、“恐怖のストレッチャ−”で帰ることとなりました。

 何が恐怖かと言うと、その恐ろしい「音と振動」です。廊下の継ぎ目、床下点検口、エレベ−タ−と床の隙間などで猛烈な音と振動が連続して起きるのです。私は、重症の患者がこんなものに乗っているとは信じることが出来ませんでした。まさに“もの言えぬ患者”だからでしょう。

 翌日“あのストレッチャ−では、手術の縫い合わせも外れるのではないですか”という私の意見に、ある看護師からは、“いいぇ、あれは麻酔の眠りを覚ますためです”というものすごい返事が返ってきました(!)外科には、そうした仕掛けがあるということですが、クッションもないストレッチャ−に乗せられる外科以外の“もの言えぬ患者”は大変です。

 突然ですが“親の介護は、経験した者でないと分からない”という介護作家?の門野晴子さんの名言がありますが、私は、これに“ストレッチャ−の恐怖は、乗った者でないと分からない”も加えたいと思います。ですから私は、医師や看護師に「ストレッチャ−体験」を義務付けてはどうかと思います。

 

5.点滴スタンドのこと

 さて次は、大変お世話になった点滴スタンドのことです。これにも“患者の目線”は、ほとんど感じられません。これを押して買い物に行くのですが,コントロ−ラ−が中央部にあるために不安定で、慣れないうちは倒れそうになります。

 なかにはコントロ−ラ−ばかりかパソコンのようなものを2つ合計3つも付けて引っ張る女性がいました。日本人は器用ですからいいですが、外国人にはまるで手品師のように写るでしょう。これはメ−カ−の責任ですが、すべて医師や看護師の目線でデザインされているからです。

それならお前は、どのようなデザインにするのかと言うことになりますが、これについては、私も多くの治療費を払いましたので、そのうちに実用新案を申請してメ−カ−に売り込んで治療費分を稼ごうかと思いますので、ここでは企業秘密としておきたいと思います。(獲らぬタヌキの皮算用!)しかし,ここでヒントだけ申し上げましょう。例えば看護師さんたちの使うパソコンのバッテリ−はラックの下に置かれています!

 要するに点滴スタンドは、約100年前のナイチンゲ−ル(後述)の時代から進歩していないのではないかと言うことなのです。

 

6.温湿度管理

 次は病室の温湿度管理です。私はいつも、新幹線でも飛行機でも温湿度計を持ち歩いて測定しています。さらに10cm角くらいの超小型の「携帯用加湿器」も持ち歩き、車の中でも利用しています。今回も部屋に加湿器を置かせていただいていますが、それでも35%くらいしか上がりません。理想的な湿度は40-60%ですから,まだ足りません。まして加湿器がなければ2025%くらいですから、エアコンのままですと冬季のウィルス感染の危険性は高くなります。そこで窓を開ける必要もありますので、お掃除スタッフに窓開けを依頼してはどうでしょうか。

 蛇足ですが私は、金沢大学時代に看護専門学校の「室内環境論」の講義で、ナイチンゲ−ルなどを引用しながら、室内論、空気、温湿度論の講義をしましたが、“ここの卒業生は、病室の空気や温湿度に関心があり良いことだ”と評判でした。

 

7.ナイチンゲ−ルの功績

 さてそのフランシス・ナイチンゲ−ルの功績ですが、看護師の皆さんには、釈迦に説法で恐縮ですが、彼女の功績は、クリミア戦争の天使というよりも、「優れた環境学者」であったと思われることです。彼女(1820-1910)は、皆さんの教科書でもあった『看護の覚書−看護であること・看護でないこと』(1854)の中の第1章「換気と保温」、第2章「住居の健康」で、住居の健康を守る5つの基本として「清浄な空気」、「清浄な水」、「適切な排水」、「清潔」、「陽光」を挙げ、人々に清浄な空気を提供するために、建物の空気をどう循環させるか、窓をどう開けるかなどについて述べ、とくに看護師が窓の開閉に細かな配慮が必要なことを詳細に述べているのです。

 話は変わりますが、同じ頃のエレン・スワロ−(アメリカで最初の女子大学生となった)は,1892(明治25)年に「社会学的エコロジ−」を提唱し、さらに「ヒュ−マン・エコロジ−」まで発展させ、後に後輩のレイチェル・カ−ソンに引き継がれて、ついに名著の誉れ高い「沈黙の春」(1952)に結実しました。そしてさらにノルウエ−の女性首相ブルントラント率いる国連の「環境と開発に関する世界委員会」(1987)などの女性科学者たちの手を経て、今日の「エコロジ−時代」を迎えたことは良く知られています。つまり「エコロジ−」は女性の手によって生まれたのです。

しかし、私の見るところ、E・スワロ−のエコロジ−のヒントは、F・ナイチンゲ−ルの「空気と水論」にあったのかも知れないと想像しています。

 さらにここで“釈迦に説法”ですが、この時代のエピソ−ドを紹介しておきます。それは、ロベルト・コッホ(1843-1910)によるコレラ菌の発見です。この”菌の発見”で、ギリシャのヒポクラテス以来の“環境と人間の不調和こそが疾病の原因である”という環境重視観やエコロジ−観が、大きく後退させられたと言われています。もっともこの指摘で、私は、菌類の発見を過少評価するつもりはありませんが。                                                   

8.その他

@エレベ−タ−をなんとかして

 本棟の3台のエレベ−タ−の運行についての注文ですが、確かに何かのプログラミングはされていると思われるのですが、患者の利用実態と全く合致していないと思います。私を見舞ってくれた広島のあるVIPは、帰りにエレベ−タ−の前で“このエレベ−タ−はヒドイね”と怒っていました。

 ここでは、たくさんあるのですが、2例のみ取り上げます。

1)例えば、2階で待っている時に「左側が」を示し、「右側が2↓」を示しているとします。上に上がりたい時は、当然に左で待ちます。ところが突然に「左側が」を示し、「右側が2↑」に豹変するのです。この時に点滴スタンドや車椅子の人や高齢者は、当然ですが急に移動できません。呆然と立ち尽くすのみです。

2)3台ともに8,9,10階あたりを一緒に上下しているのを見ると、急ぐ時には、本当に腹が立ちます。こうした事が多くても、皆さんは“大学病院だから我慢している”のではないでしょうか。デパ−トやス−パ−マ−ケットなら皆さんは、当然に抗議すると思います。この対策について私は素人ですが、例えば学生バイトを雇って、患者の利用アンケ−トを実施して、シュミレ−ションをしたら良いのではないかと思います。エレベ−タ−の管理会社のプログラムには、たぶん「大規模病院の患者利用」に関する信頼すべきプログラムが無いのだと思います。

A恐怖の長廊下

 次は入院棟と診療棟を結ぶ長い廊下です。ここの3階をストレツチャ−で通った時の騒音と振動も相当なものでしたが、2階の廊下を寒い時に、一人で、疲れて通る時には、“(目まいの前歴もあるので)途中で倒れたらどうしよう”と恐怖でした。

 そこである日看護実習学生(同じ広島国際大学の看護学部生でした)に車椅子で送ってもらいながら、“僕は,途中にソファ−などが欲しいと思うよ。ここで倒れる実験をしてみようか。みんな慌てるだろうね”と言ったら、彼女は大笑いしていました。

 あの廊下に「患者の権利」を張り出すよりも、休憩用のソファ−や風除けのエア−カ−テン(お金がかかる)またはカ−テン(あまりかからない)など、要するに風除け装置を設置していただいた方が、大変有難いと思います。

 

附−1. 放射線科のこと 

ここで「放射線科」について少し触れてみたいと思います。いまは「放射線科」ではリニヤック室も新築下にあり、超快適な中央点滴室(私は思わず“癖になりそう”などと言ってしまいました)もでき、少しずつ整ってきています。いずれも患者の目線からも、うれしいものです。しかし、私がさらに感動したのは,CT室のペインテイングでした。天井にはきれいな空と雲が描かれ、CTマシンにも絵が描かれています。これは明らかに、日本人の好きな「浦島太郎」の竜宮城(ユ−トピア)の門です。これで患者の心が、子どもから高齢者まで、どれほど癒されるか計り知れません。そしてその前の待合室の温湿度は、なんと20°C,47%という理想的なものでした。

これまでいささか蛸足型の整備が進められてきたと思われる(失礼!)「放射線科」は、今後も他の診療部門とともに歩調を合わせて整備が進むことと思いますが、これからますます学際的な研究・治療機能を発揮すべき放射線科は、医療施設計画上でもっと重要なポジションに位置付けられるべきではないかと思われます。

 

附−2. 原医研のこと

 それでは原医研はどうでしょうか。ここで原医研を巡る大学附置研究所として考慮すべき施設計画上の基本的な課題について、順不同で、手元の資料も不足ですが、夢想してみたいと思います。

     築40年!−この経年による(耐震偽装ならぬ)耐震疲労は脅威的なものと想定されます。芸予地震には耐えたようですが、今後数十年の確率が50%という超高率な南海・東南海地震が同時発生したら、とても耐えられないでしょう。

     COEの拠点?−21世紀COEプログラムによる「放射線災害医療開発の先端的研究教育拠点」を目指している原医研は、広島大学の大いなる顔の一つでもあります。しかし、もし文科省のCOE拠点施設機能調査でもあれば、“こんな施設でCOEの研究と教育の遂行は不可能である”とCOEプログラム採択の取り消しを受けるのではと心配です。

     世界の頭と手として

@もう一つの大きな課題は、ここは、放射線科のように“他の部門とともに”と単純に行かないことです。これが原医研で得られた基礎研究成果が直接医療と結びつかない最大の課題の一つであると思います。

A     ですから例えば、原医研の「三次被ばく医療機関事業」の果たすべき国内貢献のみならず国際貢献の未来像、またポストゲノムの持つ未来の可能性などを思慮すれば、国内のPFIを含みつつ、国を超えた国連やJICAの支援も視野に入れた国際的なコンソ−シアムの形成による支援という観点などからも、改めて広島大学病院と連携した中核的施設の一つとして位置付けられるべきではないかと思うのです。

Bこのように考えますと、私は全くのド素人ですが、例えば、粒子線治療などによる「がん治療センタ−」などとゲノム情報による「オ−ダ−メイド医療」などの接近によって、放射線科と原医研は、より接近しつつ21世紀の先進医療を担う広島大学病院の「グロ−バルな頭(病理)と手(臨床)」として生きる展望もあり得るのではないかと夢想しているところです

 

多言多謝


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